理由を探しているんだ!!!

僕はすべてを信じているのかもしれないし本当はそれを軽蔑していないのかもしれない、一体全体どのようにして、どうしてこの直線の果てにある一切の事象が今を前提にして証明できてると言う。

小説を書くのはつらい

 初めに言っておくが、これはただのポエムであり、駄文であり、文字書きであるにもかかわらず文の製造作業に苦を呈してYoutubeで音楽を聴きながら「ブログ書くかー」なんてツイッターでほざいている人間の、どうしようもない蚯蚓の様な文章である。それでも良いという奴は感性が死んでるので海外旅行にでも行け。

 

 小説を書くのはつらい。小説には救いがない。

 例えばシージを始めよう。すると、救いがある。GTAでもBFVでも良い。即時性の快楽物質により脳が素晴らしくハイになる。

 貴方は小説を書きたいか? 忍耐がないなら止めた方が良いだろう。執筆とは登山である。訓練を積まなければサガルマータには登れない。訓練を積んでも途中で幾人も挫折する。初心者には最初の8000字を超えられるかどうかが難関ともいわれるが、実際にはその十倍以上の量を書かないと作品は完成しない。ちなみに十万字書いても執筆者がバカだと作品が完成しないこともある。

 小説とは継続である。継続しないと続かない。一日七千字を二週に一回出す人よりも一日二千字を継続できる人が千倍偉い。四倍じゃないかという指摘は気にしない。

 小説は精神を消耗させる。例えば編集者から評価シートを貰うとしよう。無慈悲な批評家棒でボコボコに殴られる。残るのは血溜りと絶望である。

 小説を書く人間には色々いる。一年で十二作完成させるものもいれば二年に一作というものもいる。平均して原稿用紙一万枚書けば受賞できると言われている。受賞しない人はそれまでに挫折するか自殺する。

 まぁ、小説はそういうものである。しかし特殊性の人間はそこに吸引されてしまう。何故か私は解らない。即時的苦しみを越えた先のヘロイン級の快楽が因とされるかもしれない。確かにアレは格別だ。

 

 小説を書くことを勧めてみよう。ポエムを言っても仕方がない。残るのは自声の残響。離れるものが全てである。

 文字書きは感情を大切にする職業である。音楽を聴いたり又奏でたり、プラットフォームに拘束されず色々な作品を経験し得て、感情を養う。そこに本質があるものだ。

 今貴方が小説を書きたいと感じているならば、迷う暇などない。一刻も早くテキストエディタなりグーグルドキュメントなりに向かってキーボードを打ち続けるべきなのだ。若しくはペンと紙だけでも良い。書く時間を選んではいけない。書きたいときに書くべきなのだ。書きたくないときにも書かなければ作品は完成しない。

 前述のとおり文庫本換算で最初の十枚、大体8000字程度を超えられるかで力量がわかるとされる。試しに書いてみれば良い。それで超えられなくても悔やむことはない。文章的な問題は貴方が日毎書いてさえいればこれからどんどん、愈々と見るうちに伸びてくるはずだ。50万字ほど書いたらもう立派に文章のレベルは問題なくなるだろう。100万字ほど書いてしまえば書店に並んでても違和感はなくなるまでになるかもしれない。ここは身長と同じで個人差によるが、概ね二三年の間に解決してくるはずだ。

 文字書きとは思考を外界へ運び出す職業でもある。アウトプットすることを覚えなければならない。『マルドゥック・スクランブル』、『天地明察』などの冲方丁によれば小説とは「著者が作品に記すのに60%、そこから読者に伝わるのに60%、著者から読者に汲み取られる意思はせいぜい36%ぐらいしかない」といっているが、まさにこのとおりである。アウトプットの作法を学び、できる限り書きたいものをかけるようにしていかなければならない。勿論、自分自身の手法で。

 後、時間である。

 文字書きは多くの時間を必要とする。一度小説を書いてみた人は理解できるだろうが、我々が普段読む本の速度に比して書く量の速度は著しく遅くなる。早い人は一日で文庫本を読み終えるが、一日で長編一個完成させられる人は古今東西見ても存在しない。執筆速度において神と崇め称えられる森博嗣でも一時間六千字である。いやまぁ、プロットさえできてしまえれば三日で完成できるという人を僕は知っているが。誰とは言わないが、第二十五回電撃大賞受賞者のうちの誰かではあるとだけは言える。

 ああ、そう。プロットだ。小説を書くのには一般してプロットが必要である。プロットは設計図であり、登山計画書でもある。設計図がないと建築物は建てられない。どこか一歩間違えたり忘れたりしたら総崩れである。登山計画書がないと家族や警察に内容が伝わらない。これはプロになった際編集との会話でわかることだと思う。恐らくは。

 喫茶店なりなんなりで音楽でも聴きながら作品を考え付いた後は、その内容を一つ一つ、時系列順に記していくべきだと思う。そのうえで物語として、文としてどのように展開されうるかをプロットにして示すべきだ。そうすればわりと安心する。プロットさえあれば忘却という心配は必要なく、一か月後でも一年後でも三年後でもいつでもかけてしまえるのだ。大御所作家はプロットを常に作品其々十本はストックとして貯めているという。僕も早くそうなりたい。

 プロットが決まった後は各章ごとの文字数を決定する。序盤は少なめに、盛り上がりからラストにかけて多く、など、色々決定する。たいてい僕はここで失敗するか、ここまで決めきれず130枚という容量をオーバーして失敗になる。建築物高度が15mまでと決まっているどこかの都市で50mのビルを建ててしまうようなものだ。愚かしい。

 そうした作業をすれば、後は小説を書くのみである。ここについては継続がものをいう。早い人だと二か月で完了するが、半年ぐらいで仕上がれば十分褒められる領域であると感じる。実際、小説を完成できずに一生を終えるような人のほうが圧倒的に多いのだ。最初の作品を一つ完成せしめた時点で表彰ものだろう。たぶん。

 まあともかく、初稿を終えたら次は修正という推敲が待っている。もう一度あらためてリプレイをかけて、読み直してみるのだ。おかしい箇所があったら直し、場合によっては文どころかその章ごと改造してみる。そういう作業を一か月は繰り返して最終的に小説を完成させる。推敲の過程は印刷して紙に書いたほうが絶対によいだろう。少なくとも僕はそうしている。

 さすれば後は、個人の好きな賞に応募するのみだ。ラノベあたりが最近はよいのではないだろうか。SFもまぁ良い。大衆小説でも純文学でもなんでもいいが、好きなところに送るべきだ。後は例えばMFのようなラブコメの文庫にガチガチのミステリーを送るなど、そうしたことは避けるべきだ。一応レーベルカラーというものはある。そこらへん留意しておこう。

 

 とにかく、僕が言えるのは以上である。これをもってこの駄文執筆を終了する。三千字弱ほど書いて満足した。有難うはてなブログ